野口英世とアメリカ(9)

7.メリーとの結婚

1911年4月10日、野口英世は、メリー・ダージスと結婚した。この経緯および、英世の妻メリーついては、『英世の妻』(飯沼信子著 新人物往来社)に詳しく記載されている。メリー・ダージスは、アイルランド移民の炭鉱夫の娘である。ペンシルベニア州の炭鉱の町スクラントンで生まれ、ニューヨークに出てきた。メリーは、英世よりもずっと大柄で、目が大きく魅力的な女性であった。結婚したとき、英世は34歳。メリーは35歳。2人の出会いは、ルーチョー・レストラン。デンマークに留学する前にも会っているが、留学後再会し、すっかり意気投合してしまう。彼ら2人に、メリーの親しい友人であるジャック・グルンバーグという若手ピアニストと、その女友達であるマーテス・オーエンスが合流し、4人でダブルデートを楽しむようになった。

1911年4月10日、4人は、いつものようにバーで酒を飲んでいるうちに、2組一緒に結婚しようという話になり、ハドソン川の対岸のニュージャージー州ホボケンの町で、式を挙げた。ただし、英世の結婚は、英世夫妻と同じアパートに住んでいた堀市郎、結婚前に同居していた荒木紀男と、一緒に式を挙げたグルンバーグ夫妻しか知らなかった。日本の恩人や、フレクスナー、ロックフェラー医学研究所にも内密にしていた。

英世が、この結婚を伏せていた理由は、2つある。1つは、フレクスナーからアメリカ人との結婚は反対されていたこと(日本から日本人の妻を娶れと言われていた)。また、妻帯したためロックフェラー研究所における地位と俸給に関して、不都合なことが起きないかという危惧であった。しかし、いつまでも黙っておくわけにもいかないので、研究所の所員には結婚の事実を発表した。ただし、研究所の所員は、メリーについての悪い噂(場末のカフェで歌っていた等)をこそこそ話す。フレクスナーも、英世の結婚相手の選択にとても落胆した。そして、メリーを無視した。メリーが酒に強いということは、ロックフェラーの耳にも入った。禁酒・禁煙であった、ロックフェラーも、メリーのことを受け入れることができなかった。

こうしたことから、「メリーは悪妻であった」という誤解が生まれたのかもしれない。飯沼信子氏は、さまざまな資料を調べた結果、メリー対して好意的な解釈をしている。仮に、英世が通常のアメリカ人女性と結婚したならば、結婚生活は長続きしなかったのではないかと想像される。それは、英世が研究に没頭した生活をしていたからだ。”I love you, honey”というようなことをいつも言ってもらわなければ気がすまないアメリカ人女性では耐えられない生活であったろう。ましてや、日本から海外経験の無い女性を配偶者にした場合、奥さんの面倒を見ることで、英世は疲れてしまったかもしれない。

英世がアグラで黄熱病に感染した時、彼が一番求めていたのは、メリーからの電報であった。これこそ、英世とメリーの間に、しっかりした愛情があったことを示している。

齋藤英雄

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