太宰治心中の謎(3)

2.七里ガ浜

太宰治が初めて心中を図ったのは、1930年11月28日夜のこと。銀座のバー「ホリウッド」の女給をしていた田部あつみ鎌倉においてである。『葉』、『道化の華』、『狂言の神』、『東京八景』、『人間失格』などには、女と入水して心中を図ったが、自分だけが生き残ったという旨のことが書かれている。さらに、『虚構の春』には、以下のような記述のように、入水の前に薬を飲んだと記されている。

「飛びこむよりさきにまず薬を呑んだのです。私が呑んで、それから私が微笑(ほほえ)みながら、姫や、敵のひげむじゃに抱かれるよりは、父と一緒に死にたまえ。少しも早う、この毒を呑んで死んでお呉れ。そんなたわむれの言葉を交(かわ)しながら、ゆとりある態度で呑みおわって、それから、大きいひらたい岩にふたりならんで腰かけて、両脚をぶらぶらうごかしながら、静かに薬のきく時を待って居ました。
(中略)
突然、くすりがきいてきて、女は、ひゅう、ひゅう、と草笛の音に似た声を発して、くるしい、くるしい、と水のようなものを吐いて、岩のうえを這(は)いずりまわっていた様子で、私は、その吐瀉物(としゃぶつ)をあとへ汚くのこして死ぬのは、なんとしても、心残りであったから、マントの袖(そで)で拭いてまわって、いつしか、私にも、薬がきいて、ぬらぬら濡れている岩の上を踏みぬめらかし踏みすべり、まっくろぐろの四足獣、のどに赤熱(しゃくねつ)の鉄火箸(かなひばし)を、五寸も六寸も突き通され、やがて、その鬼の鉄棒は胸に到り、腹にいたり、そのころには、もはや二つの動くむくろ、黒い四足獣がゆらゆらあるいた。折りかさなって岩からてんらく、ざぶと浪(なみ)をかぶって、はじめ引き寄せ、一瞬後は、お互いぐんと相手を蹴飛ばし、たちまち離れて、謂(い)わば蚊(か)よりも弱い声、『海野さあん。』私の名ではなかった。」

太宰治と田部あつみの2人が心中を図った鎌倉の小動岬とは、一体どのような場所なのか、現地調査に出かけてみた。小動岬は、湘南海岸の中でも、七里ガ浜の西端に位置する。東端は、稲村ケ崎。太宰と田部は、鎌倉駅から七里ガ浜に出て、そこから小動岬まで歩いていったとのこと。まさにその道を、筆者は大渋滞の中、車でゆっくり移動した。小動岬は、断崖絶壁に囲まれた小高い半島である。ここに辿りついた2人は、岬突端絶壁の下にある畳岩に腰をかけ、カルモチンを大量に飲んだ。

現場は、岩場で波の荒いところ。仮に、睡眠薬を飲んで、入水したならば、たとえ、その効きが悪くても、生きて岩場に戻ることは不可能であったと推察される。ところが、太宰は死ななかった。ということは、太宰治が小説で書いた、入水自殺というのは、事実ではない可能性が高い。つまり、薬を飲んだだけということであろう。入水心中説は、太宰の小説に書かれた情景を鵜呑みにしたもので、現地を見たものではないと思われる。田部あつみの死因は、カルモチンを大量摂取したのち、嘔吐を繰り返し、吐瀉物が気管に詰まって窒息死した、もしくは苦しんで這いまわるうちに体力を消耗し凍死したと考える方が自然である。

注)カルモチンとは
催眠鎮静効果のある化合物ブロムワレリル尿素(ブロムイソバレリルカルバミド)の商品名。かつては処方箋などの書類が無くても購入可能な睡眠薬であった。現在は医師の管理下の元、処方せん無しでは入手できない。自殺目的などで大量服用し急性中毒を引き起こす場合があるが致死性は低い。

齋藤英雄

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