福澤諭吉と北里柴三郎

大村智教授のノーベル賞受賞に寄せて (2015年)

日本人にとって嬉しいニュースが飛び込んできました。日本人受賞者の内の一人、大村智教授が北里研究所と北里病院で永年仕事をされてこられたことを知りました。

北里研究所病院は、福澤諭吉翁の支援により明治26年(1893年)に設立されました。その沿革は北里柴三郎博士によって開設された、日本初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」にまで遡ります。この陰には、福澤諭吉の多大な貢献、協力がありました。

1853年に生まれた北里柴三郎は、ドイツ留学中に血清療法を確立します。その功績と学問的価値は、本来ならばノーベル賞を授与されてしかるべきものでした。しかし当時日本の国際的地位はまだまだ低かったこともあってか、残念ながら受賞に至ることはありませんでした。

帰国した北里柴三郎には留学中に取り組んだ結核への研究を継続し、結実させる期待が寄せられました。そのため、なんとか研究所を設立するように関係者は奔走しますが、容易ではありませんでした。そんな中、北里の上司は旧知であった福澤に相談したところ、即座に芝公園内の所有地を提供してくれるとともに、私財をも投じてくれることになり、日本初となる伝染病研究所の設立が実現されました。


当時、伝染病研究所の設立には用地や資金だけでなく、困難も多く、周囲の住民からは、環境や健康に害が及ぶのではないかとの危惧から反対の声も上がる中、なんとか説得して、設立に漕ぎ着けたとのことです。
さらに、その後、政府が突如、研究所を文部省管轄に置いた上で東京大学傘下にするとの決定を下したときのことです。自由な研究ができなくなることを憂慮した北里は、このような予期せぬ出来事があるかもしれないと示唆した福澤の教えに従って貯めていた私財を投じて北里研究所を設立しました。また福澤からもらった恩に報いるため、慶應義塾大学医学部創設に尽力し、初代医学部長を務めたのでした。

今回の大村教授のノーベル賞受賞は、一世紀以上の時を経て、北里柴三郎博士やそれを支えたひとたちの悲願を達成したとの意味合いも含んでいます。そして北里博士や北里研究所の偉業の陰には、福澤諭吉の科学への確かな目、その進歩のためには損得勘定を抜きに心から支援する姿勢と、暖かい思いやりの心があったことを忘れてはならないと思います。

風戸 俊城

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