私のふるさと~奈良県五條市西吉野町6

10.母の実家のこと
 母の実家は隣の集落の立川渡にある松場家である。松場は女ばかりの4人姉妹で最後に男が生まれ、母は次女である。二、三、四女は同じ宗川野に住んでいた。この辺りは近くの者同士が結婚するので濃い薄いはあっても村中が皆親戚同士になる。

1.松葉

松場は山の高台に在り、日当たりも良く農作物も良く育った。村では、権力者や金持ちほど高いところに住み、分家や新宅しんたくは下の川に近いところに住んだ。それは日当たりの問題だけでなく交通の便でも尾根伝いに歩けば隣の在所に最短距離で行けると言う利点にもよる。川沿いの道路際が便利になったのは車社会に入ってからのことで徒歩の時代は好んで山の尾根に近いところに住んだ。

 松場の土地は吉野の八荘司に数えられる豪族の小野氏が住んでいたところで、宗川半郷と桧川郷を支配、この為村を宗檜村と呼んだ。(昭和の合併促進法で西吉野村になる前は宗檜村、賀名生村、白銀村が在った。)殿平屋敷と呼ばれ周りに土塀を巡らした豪邸であったらしいが、七郎、八郎の兄弟が村人にいつも無理難題を押し付けるので怒った立川渡の人達が兄弟を猟に誘って殺し、ついでに一家皆殺しにしてしまった。その後立川渡には不吉なことが続いたので祟りを収めるために立川渡に寺を建てたとの言い伝えがある。いまでもこの辺りを「トノンタイラ(殿平)」と言う。

 この土地に松場が来た詳細は分からないが兄の正一が買って松場芳三に与えた時は、他にまだ2,3軒家が残っており、ブラジル移住の計画を進めていた。その内の一人を親の如く慕っていた松場兄弟は、自分達もブラジルに移住すべく動いていたが、村の人から貰った餞別を元手にバクチで荒稼ぎし、急遽移住計画を取り止めたとのこと。父方の祖父と言い当時は相当バクチが流行っていて村にも子分を連れて全国を渡り歩いた猛者も居たらしい。松場は、ブラジル移住の人達の土地も譲り受けたので田畑も広く稲や柿の収穫時には一族郎党が手伝いに集まった。
 松場芳三は、五條の山林王の山守り(主に代わって山林育成の世話をする)をしていたが後に宗桧村の村長を、三村合併後は西吉野村の助役を務めた。役場に勤めていた時、今なら許されないことだが、廃棄書類を沢山もらって帰って来た。その頃、白紙と言えば新聞の広告欄の空きスペース位しかなかったので、裏面の白紙部を全部使えるのは贅沢だった。馬の絵など自由に描きなぐった。
 又、序の話になるが立川渡には、畠山姓が多い。これは源平合戦一ノ谷の戦いの折、馬を担いで下りた畠山重忠の子孫畠山女弥三郎兵庫が立川渡に移り住み近隣の永谷えいたに、西野、川俣、平雄と広がったことによる。立川渡の涅槃堂には、頼朝から下賜された涅槃大曼荼羅が掲げられていたが、その後高野山に移され今は国宝扱いになっていると言う。

11.おわりに

昭和の終わり頃、司馬遼太郎が「街道を行く」リーズで十津川街道の取材のために我が村に来たことがある。その時、村の世話役をやっていた叔父が案内を兼ねて同行し、そこで聞き知ったことをシャープの書院に打ち込んで残してくれた。村の旧い話はこれがベースになっている。

 又、昔はどこの家にも爺さん、婆さんが居て色んなことを孫に教えてくれたものだ。私も祖母から又かとウンザリするほど昔の話を聞かされた。核家族になった今ではその様な風景は無くなったが、誰でも年をとれば自分の辿って来た道を振り返りたくなるもの。孫に伝えたからと言ってどうと言うことは無いが遺書の積もりで故郷の思い出を書き留めた。

  最近、無性に子供の頃過ごした田舎が恋しくてバイクを飛ばして帰るのだが山川の風景は昔と全く変わらない。村の家々も昔のままでお世話になった級友のおばさんがふっと顔を出してくれる気がするが、今は静まり返った空き家。あれだけ沸いた柿作りも根元から切り倒されている柿畑が出て来た。消毒の世話が出来なくなると害虫を拡げてしまうので放置が許されないのだ。将に代悲白頭翁の世界、年年歳歳花相似たり、歳々年々人同じからず…。

(了)

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