シンゴ旅日記ジャカルタ編(13) 散歩しながら考える(メラッ・プティ)の巻
散歩しながら考えるの巻 その14 メラッ・プティ (2019年8月記)
今年のインドネシアの8月は11日(日)が生贄祭で17日(土)が独立記念日でした。
私の会社は昨年と同じく二匹のヤギを買い、一匹は近くのイスラム寺院に寄付をし、もう一匹は会社で儀式をおこなって屠殺し、お肉を料理して社員で分け合っていただきました。
今年のインドネシアは独立後74周年になります。
それで町のあちこちでは紅白旗(メラッ・プティ)やお祝いの垂れ幕が飾られています。
この紅白旗の赤(メラッ)は勇気と情熱を、白(プティ)は真実と聖なる心を表しています。
また、赤色は太陽を、白色は月を表しているともいわれます。
レストランやスーパーでは17日に引っかけた17%引きの商品が出回っていました。
なお、インドネシアの紅白旗について日本では、第二次世界大戦とその後の独立戦争でインドネシアの独立に寄与した日本の日章旗の影響を受けているという説もあります。
インドネシアが独立したのは1945年8月17日です。
日本が連合軍に降伏した日よりも2日遅れています。
その理由をWikipediaの記事から抜粋します。
「1945年3月に日本軍政当局は独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させました。
そして同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立されました。
その第1回会議が8月18日に開催されるはずでしたが8月15日に日本が連合軍に降伏したことによって、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなりました。
1945年8月15日、ジャカルタの街に日本が連合軍に降伏したという噂が拡がっていたため、スカルノとハッタは山本茂一郎軍政監と接触して、確実な情報を得ようと務めましたが徒労に終わりました。そこで二人は同日14時半頃前田精海軍少将を訪ねたところ、前田は公式な情報がないという理由で回答を留保しました。
翌8月16日早朝、スカルノとハッタは、無傷の日本軍と敵対してでも即時に独立宣言すべきと主張する青年グループに拉致されました。
スカルノ、ハッタおよびスバルジョは青年グループを説得し、8月17日の正午までに準備を整え独立を宣言をするべきと主張し、解放されてジャカルタへ向かいました。
8月16日23時頃、スカルノ、ハッタらは前田精海軍少将邸に集まり、既に起草されていた憲法前文の独立宣言に関連した箇所に基づいて独立宣言を起草し採択しました。
8月17日10時頃、スカルノらインドネシアの民族主義者たち自身が、連合国の了解を得ることなく、スカルノの私邸に集まった約1000名の立会いを得て、インドネシア独立宣言を発表しスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立したのです。」
ムルデカ(独立)広場中央に聳える高さ137mの独立記念塔(モナス)があります。
この地下1階に、インドネシアの「三種の神器」(独立宣言書・独立時に掲揚された国旗・国章)が奉納されています。
そのインドネシア独立宣言草案の宣言の日付が「05年」となっています。
それは当時日本が使っていた「皇紀2605年」を指しているのです。
独立宣言
我らインドネシア人民はここにインドネシアの独立を宣言する。 権力及びその他の委譲に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。 ジャカルタ、05年8月17日 インドネシア人民の名において |
また、インドネシアの最高額紙幣の10万ルピアです。三年前に新しいお札に切り替えられましたが、
そのデザインにはスカルノとハッタで変わっていません。
上が新札、下が旧札です。旧札は今でもまだたくさん流通しています。
スカルノ1901年- 1970年
インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家である。 初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した。1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は不遇の晩年を送ったが、いまなお国民には「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、国父(建国の父)として敬意をもって愛され続けている。 |
モハマッド・ハッタ(1902年- 1980年)は初代副大統領(1945年-1956年)です。
スカルノとは出自、性格、信条において極めて対照的であり、スカルノの鋭い批判者でもありました。