ロックフェラーの素顔(10)

(4)唯一の息子 ジュニア

ジュニアにとって、父親は産業界で巨大な帝国を築きあげた英雄であった。ジュニアは、自分の姿がみすぼらしく思えてならなかった。そんな彼は、父親への世間の批判にひどく敏感であり、人生を父親の名誉回復のために捧げようとしていた。ジュニアは、妻のアビー(共和党の上院与党院内総務ネルソン・オールドリッチの娘)を頼りにし、彼女なしでは生きていけないと見えるほどであった。

1904年、ジュニアが30代の時、彼は神経衰弱、今で言う鬱病をわずらった。これは、アーチボルト率いるスタンダード・オイル経営陣に不信感を抱くようになったこと、また、アイダ・ターベルの連載記事が原因と考えられる。さらに、マスコミがジュニアを、「人見知りの神経衰弱」と笑い物にしたことも、繊細なジュニアの心を傷つけた。

例えば、ジュニアが床屋に行き、5セントのチップを渡したところ、その5セント硬貨が床屋の壁に貼られて新聞ネタになった。ジュニアは、健康を取り戻すため、南仏で半年静養した。アメリカへ帰国してからも、自宅に引きこもり、1年近くかけて職場に復帰したが、パートタイム勤務がせいぜいであった。鬱病を克服すると、スタンダード社を辞めて、慈善事業と、JDRの身辺雑事の処理に専念するようになる。

ジュニアが本当に力をつけたのは、1914年に発生した「ラドローの虐殺」と呼ばれる労働問題の解決であった。この事件は、JDRが40%近くを保有するコロラド石油鉄鋼会社(CF&I)で発生し、多数の死傷者を出した。ジュニアは、現地に乗り込み、CF&Iで「代表交渉」を実施した。これは、労使関係において画期的な出来事である。

その後、ジュニアにとって労使関係の改善は、終生にわたるテーマとなった。JDRはこの労働争議におけるジュニアの活躍をみて、ジュニアが巨額の富の重荷に耐える資質を十分に備えていると確信した。そして、1917年の初めから、本格的に資産をジュニアに譲渡し始めた。ジュニアの目標は、巨万の富を「世界人類の幸福」を推進することに使うことであった。それは、JDRが設立した、ロックフェラー医学研究所、ロックフェラー財団などに積極的に関与するとともに、自分自身の事業を起こすことでもあった。

ジュニアが行った事業のうち、有名なものを以下にご紹介したい。

 ① ロックフェラーセンター

マンハッタンのミッドタウン開発プロジェクト。ジュニアにとっては、人生最大の決断。世界大恐慌の真っただ中の1931年に着工し、多くの雇用を生み出した。完成時には、14棟の超高層ビルからなる世界屈指の調和のとれた高層ビル群と評価された。ロックフェラーの名前を付けたことから、この頃にはロックフェラー家のイメージが大きく改善していたことがうかがえる。ブロードウェイ26番地のロックフェラー家のファミリーオフィスは、RCAビル56階に移され、ロックフェラー帝国の中心となった。ニュージャージー・スタンダード・オイル、ソコニー・ヴァキューム、カリフォルニア・スタンダード・オイル、チェース・ナショナル銀行などのロックフェラー系列の数社もこのビルに入った。

ロックフェラーセンター

 ② MoMA(The Museum of Modern Art, New York:ニューヨーク近代美術館)

ジュニアの妻アビーが、1929年に友人と設立。ジュニアは、近代美術を嫌悪していたものの、最大の支援者となった。1935年に建物を新築する際には、   JDRとジュニアの自宅が取り壊され、この美術館に跡地が提供された。

 ③ ウィリアムズバーグ

バージニア州ウィリアムズバーグを、英国植民地時代の街並みに復元するプロジェクト。ウィリアム・アンド・メアリー大学のグッドウィン教授がジュニアに持ちかけた。当初は乗り気でなかったジュニアであったが、これに着手するとすっかり魅了され、5,500万ドルを注ぎ込むまでになった。1934年より一般公開されている。1983年5月には、第9回先進国首脳会議がこの地で開催され、日本からは当時の中曽根首相が出席した。

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