シンゴ旅日記インド編(84)我輩は牛である の巻
我輩は牛であるの巻 (2010年9月記)
我輩は牛である。インドの牛である。名前はまだない。と云うか、知らないのである。
自由なる牛である、と云うか、一日中ジーと考えて居る牛である。
なぜなら我輩らは考える牛であるべきだからである。
ジーとしていることによって人は我輩らを崇拝するのである。
ジーとしている本当の理由は、我輩らは動くとお腹が空くからである。
体重÷身長÷身長のメタボ係数で表すと、かなり高い数値が出るであろう。
しかし、我輩らの身長は何処から何処迄を云うのか分からないのである。
ヒズメの先からコブの天辺迄か?尻尾の付け根から角の付け根迄か、だから標準係数も分からないのである。
毎日最短距離で何処へ行けば食事に有りつけるのか、何を食べればお腹が一杯になるかを考えて居るのである。目を細め、鼻で食べ物の在処を探して居るのである。
我輩は自由牛だから飼い主は居ないのである。
中には飼い主の居る仲間もいる。
鼻飾りをしている牛も居る。町を牧場の様に漁り、走り回っている牛も居る。
そして田舎の仲間の様に荷車を引いたり、田畑に入って土を耕している牛も居るのである。田舎の仲間と云えば最近田舎ではトラクターと云うトラの名の付く機械牛が仲間の仕事をしてくれて居る。
その機械牛は草を食わない。田舎の仲間は其れを良い事に野原で草を食べ、腹が一杯に為れば農道に寝そべって居るのである。此れで良いのだろうか?
しかし、其れで良いのである。
我々の消化物は人の役に立つのである。
牝牛達の乳だけではない。
我々が毎日消化して出す〇ン○は人の役に立って居るのである。
燃料に、肥料に、家の補修材に、時には薬と為り、化粧品に為るのである。
我々は生きる有機製品生産工場なのである。
考えてみれば我輩に田舎の仲間を責める資格は無い。
我輩だって田舎の仲間の様に野原の草を食べて一日中寝て居たいのである。
然し都会で人に崇拝されて居るのでそうゆう訳には行かないのである。
其れに犬、山羊、驢馬と食べ物の取り合いをしなければ為らないのである。
山羊は紙だけ食べると思って居たら草も食べるのである。
犬だって時には草を食べるのである。
この国は昔から我輩ら牛を食べない人が多いのである。
何故だか分からない。
きっとその大昔に我輩らの先祖を食べて、お腹を壊したしたのであろう。
其れとも肉を保存する技術がなく、暑い国だから腐食してしまうためであろうか。
しかし、他の国では牛を食べるのである。
草を食う牛のその肉を食べるのである。
で在れば、何故、人は草を直接食べないのか。
その方が省力的ではないか。
最近では牛に草を食べさせないで牛の粉を入れて共食いさせて居る人が居ると云う。
その方が早く大きく育つと思って居ると云う。
その結果我輩の仲間達を病気にさせて殺して居ると云う。
運動選手の筋肉増強剤と勘違いして居るのである。
渡輩たちは人の考えが分からないのである。
最近はこの町でも外国人を多く見掛ける。先程も米国人の年寄りの団体と日本人の学者先生達が通って行った。
我輩を見て感心して居た。
我輩は只暑いし、お腹が空くので静かにしてジーとして居るだけである。
其れなのに『Oh, wonderful, He looks like a philosopher』 とか『やはりインドの牛は違いますね。物思いに耽って居ますね』とか云って通り過ぎて行った。
我輩らは人間の言葉は話せぬが理解は出来るし、人間の知識も豊富に持っている。
先祖が世界に散って行ったので、其のネットワークには素晴らしい物がある。
『News』(乳s)通信と云う通信モーを先祖から引き継いで居るのである。
処で先程、白い馬に乗った花婿が通って行った。
馬は結婚式に出ても様に為るのである。
足は長いし、顔は長いし、尻尾は立派であるからである。
此れが牛だと新郎新婦は二人の将来が心配に為るのであろう。
世界に競馬場は在るが競牛場は無い。
犬や蛙や蚤でさえ競争する場所が在るのにである。
遊園地でも子供が乗る馬の乗り物は在るが牛の乗り物は無い。因って今日は馬と牛について考えて見たい。
ウ・マとウ・シ。
ウを消去すれば、マとシが違うだけである。
中国語で馬はマーという。
であれば、牛はシーというのだろうか?
違うのである。
牛肉麺をニュウ・ロー・メンと言うように、中国語ではニュウと言うのである。
マとシのわずか一文字しか違わないのに、結果は大きく違って居るのである。
馬は西部劇のカウボーイや白馬の騎士等と主役に劣らぬ位の良い役回りである。
カウボーイと云うが彼らは『馬』に乗って『牛』を追い掛けて居るのである。
『馬乗り』で在るから本来はホース・ボーイと云うのが正しいのではないか。
カウボーイが『牛』に乗ったらロデオに為るのである。
西班牙では私たちに刃物を刺して弄り殺しにする見世物がある。
何故、牛でなくては為らないのだ。
馬では駄目なのか、豚や河馬では駄目なのか?
吾輩は国際動物愛護連盟に訴えたいと思っておる。
日本でも少々古いが、鞍馬天狗、怪傑ハリマオ、白馬童子等は皆、馬に乗って出て来たのである。
牛に乗ったアラカン、大瀬康一、山城新伍は出て来ない。
また馬は歌に為るのである。『お馬の親子』『牧場の朝』などの童謡を始め日本の歌謡曲では三橋美智也等が馬の歌をよく歌って居った。『わ~ら~に、まみれてヨー、~~』。
牛について歌う歌謡曲を聞いた事が無い。
あの内藤洋子も『白馬のルンナ』と云う歌を歌っていた。
『乳牛のルンナ』と言う歌は無い。
ルンナに良く似た語彙で『ドナドナ』と云う西洋の歌がある。
日本でも有名な歌である。今の若い人は知らないであろう。
『荷馬車がゴトゴト 子牛を載せて行く』のだ。
最初に馬も出て来るのである。牛を運ぶ馬車の役である。
だが、子牛は何処へ連れて行かれるのか?
この歌には実は恐ろしい事実が隠されて居るのである。
此の作者はユダヤ人でホロコーストの時代に妻と息子二人が強制収用所に連れて行かれたのである。
『DONADONA』は原語では『DONAYDONAY』で『DONAY』と云うのはヘブライ語で『主よ』と云う意味が隠されているのである。
ナチに連行される家族を悲しく、悔しく見送った歌なのである。
連れて行かれる子牛に擬えて親牛の心境を綴った歌なのである。
涙無くしては聞けない歌である。
昔から我輩ら牛と彼の馬達とは人の暮らしに深く結び付いて居るのである。然し、誤解されている事もある。
車では馬車も牛車もある、しかし、顔については馬面とは云うが牛面とは云は無いのである。我輩らも結構顔は長いのにである。
其れに人は我輩ら牛に対して多くの誤解をして居るのである。
例えば、『牛飲馬食』此れはおかしい。
牛飲というが馬の方が水を良く飲む。水を入れる物をバケツ(馬尻)というではないか、すまん、少しジョークを入れて見た。
馬食というが我輩たち牛の方が良く食べる。胃も馬より多く長いのである。
馬に就いての諺は次の通りである。
『天高く馬肥ゆ』
牛だって肥えるのである。牛はいつも太っている様に見られて居るのだろうか。
『人間万事塞翁が馬』
牛では多分、否、きっと、否、必ず、出て行って仕舞えば、二度と戻って来ないのである。行った切りに成るので諺の意味が違って来るのである。
「人間万事塞翁が牛」では人生が悲劇に成るのである。
『馬には乗ってみよ、人には沿うてみよ』
先ず乗って試せ、付き合って判断せよである。牛にも乗って見て欲しい。
『竹馬の友』
タケウマと読まないでほしい、何故チクバと音読みするのだ。で、あれば友もユウと音読みしてチクバのユウと云うべきであると考える。
『馬が合う』
牛ではいけないのだろうか、ヒトは『君とはウシが合うねぇ』とは云わない、一字違いだけなのにである。
『馬子にも衣装』
最近の若者は字を読まないで発音だけ聞いて、馬子を「孫」と間違えて居るものが多い。
『馬齢を重ねる』
馬は無駄に年を取って居るのである。でも馬と牛とどちらが長生きするのであろうか?
『馬脚を露す』
てっきり出典は歌舞伎かと思って居た。しかしこれは中国の話で在る。「露出馬脚来」と云うのである。
『馬耳東風』
『俺の、俺の話を聞け』っと云っても、馬は聞いていないのである。
我輩たち牛についての諺は次のものがある。
『鶏口となる牛後となるなかれ』
鶏頭ではないぞ。鶏の口であるぞ。「寄らば大樹の陰」の反対である。
『角を矯めて牛を殺す』
曲がった角を直そうとして牛を殺す。我輩らの角の形には夫々意味があるのだよ。
『牛に引かれて善光寺参り』
善光寺の神様はシヴァ神だったのかとナンディンが悩んで居るのだ。
『牛歩戦術』
イメージ変えろよ、民主党、野党の時とは違うのだぞと云いたいのである。
『牛タン戦術』
吾輩たちの長い舌である牛タンを長々と質問して時間を稼ぐ政治家の演説のことであるとは知らなかった。最初に聞いた時はタンに付けるのは塩かレモンかどちらが良いのかと悩むので、相手にどちらを取らせるか考えさせる戦術のことだと吾輩は思っておった。
『商いは牛のよだれ』
地道に気長にやれということだ。米国のファンド゙よ、何故此の時期に日本円を今買うのだ。困っておるぞ。経団連が。日経連が、商工会議所が。
『牛の小便と親の意見』
茄子とはえらい違うな。あの「親の意見と茄子の花は、千に一つもあだは無い。」という奴とである。我輩にとっては『さらばとて 石に布団も 掛けられず』の現在である。
其の他思い付く儘に牛に関することわざを云うと『猪突モウ進』『モウ母三遷の教え』『恋はモウ目』あれ、これ等は違うのか?ちととぼけてみた。
まあ良い、馬に比較して我輩ら牛は余り派手な印象が無いのである。
『遅い』、『涎』、『小水』が人には目に映るのであろう。
しかし、牛と馬を一緒にした諺もあるのである。
『牛は牛づれ、馬は馬づれ』
似たもの夫婦
『牛も千里、馬も千里』
早い遅いは在っても行き着く所は同じであるので慌てる必要もない。
此れは我輩らへの人の同情心なのであろうか?
絵画でも馬が7頭から10頭疾走する縁起物の額は在るが、牛がモー進してて居る絵は無い。
ナポレオンが馬に乗ってアルプスを越える絵がある?其れが牛では駄目なのか?
牛ではアルプスが越えられないのか、
戦争に負けるとでも云うのか!?
日本にも楠木正成を始め馬に乗る侍、英雄の像がある。
印度も同様に何処の町に行っても、戦士が馬に跨っている銅像があるのである。
我輩は不満である。
牛に乗って戦っては英国から独立出来なかったのか?
英国と云えば騎兵隊である。何故馬なのか。牛では駄目なのか?駄目なのであろう。
これは我輩でも十二分に理解出来る。
我輩らは整列が出来ないのである。
手前勝手に並ぶのである。
其れでは女王様に顔見世が出来ないのである。
そして10月から始まる英連邦スポーツ大会 Common Wealth Gameが成功しないであろう。そう云えばプネに私立の競馬場がある。
そこの所有者は空港の土地所有者でもあると云う。
先日のドバイでの競馬でプネの馬が優勝したと云う。如何して、印度の馬がドバイ迄行って競争しなければならないのか、良く理解出来ないのである。
然し日本の吟遊詩人である芭蕉さんは『のみ しらみ 馬のしとする まくらもと』と詠んでいるのである。馬のシトである。
然し、馬のシトと云うと、其れは高い所からすると云う感じがする。
牛だと僅かだが低めに成るのである。
俳句の持つ意味が違って来るのである。少々シットする我輩である。
あっ、今、貴方は我輩の洒落をシカトしましたな。
まあ良い。何と云っても印度では馬より牛であるのだ。
ウッシッシである。
これが結論である。
以上である。
尚、シカトと言うのは花札で10月の札の鹿が横を向いているところからの隠語である事を付け加えて置くのである。終わり。
あ~疲れた。
我輩なこうやって、慣れん標準語を使うてな、ハーフの会でしゃべったさかい、エロー、疲れたんですわ。
今日もあんさんの前で説明するためにこれまた標準語でしゃべりましたが疲れまんな、
けど標準語て話すと漢字がオオなってしもて、何か説教臭くなってしまいますな。
商人の町・ナニワと役人の町・エドの違いやろな、きっと。
落語でも漫才でもエドの芸人さんは上から目線でしゃべりはるもんな。
それに比べてナニワの芸人さんは聴きに来てはるあんさんもアホやけど、ワテの方がもっとアホだっせちゅうアホの共有感がありますわな。
あの~、ギフのオッサン、このニュアンス分かりまっか、聞いてまっか?
丹羽慎吾