長尾村の歴史(その2ー追稿)

長尾村の歴史(その2-追稿)

井田家ご本家の井田正敏氏にお目に掛かる機会を得た。更に勉強会での講話の快諾を頂いて実現した。お話を伺うにつれ歴史に大変憧憬の深い方で、井田家の祖先についてもいろいろ勉強をされていることを知った。

先に紹介した近編武蔵風土記稿では高橋家の祖先は小田原の武士高橋帯刀となっているが同氏によると井田家はそれ以前から存在したという。井田家に残っていた文書資料の中に天正15年(1587)高橋帯刀宛の朱印状(丸子安堵)があるが、それに先立つ天正3年(1575)の井田帯刀隠田検地通知状があり、年不詳だが同じく井田帯刀宛感状が存在する。井田氏の推測では小田原の武将高橋帯刀が長尾に出たあと何らかの理由で井田家に婿養子に入ったのではないかと推測する。歴史的にもよくあるケースで充分考えられる話だと思う。(関東八平士の例など)
井田姓については更に古く応永12年(1405)長尾山威光寺(現在の長楽寺)造立勧進状に出てくる他、応永33年(1426)井田雅楽助忠行が父道祐の十三回忌法要、また正長2年(1429)母妙珍の三十三回忌法要を行ったという記録が深大寺の僧侶長弁の私案にある。
下って永生6年(1509)妙楽寺薬師寺如来像造立の記録、天文14年(1545)井田太郎左右衛門が薬師脇侍日光菩薩造立の記録が妙楽寺の記録に残っている。
更に永禄元年(1558)小田原北條の武士恒岡から長尾村宛の朱印状「選銭令」の文書、永禄6年(1564)高橋帯刀宛の朱印状(丸子の土地と足立区島根村の土地の替え地)が残っている。

妙楽寺の山門を入って右手に井田家先祖の墓がある。戒名「道精大徳」であるが井田氏の曾祖父に当たる井田文蔵氏がこの墓碑の裏に記すには、先祖の「道精大徳」という人物は新田義貞、後の由良国繁の子供としている。秀吉の小田原攻めのおり、由良国繁が人質として捕らえられ小田原城内に幽閉された時、部下の金井田なる武将が由良国繁の子供、即ち「道精大徳」を助けて預かったという。新編風土記稿にある金井田という姓ともつながる話かも知れない。
なお「道精大徳」は元和9年(1623)没とあり、川崎市史ではこの人物を高橋帯刀としているが時代的に少し無理がある。井田氏の分析では高橋帯刀と井田帯刀は別人ではないかという。

妙楽寺の縁起には長尾景虎が戦に敗れ疵をいやすため大師穴に隠れたとあるが景虎ではなく長尾景春ではないかと井田氏はいう。川越と小机の中間で名前の由緒も考えられるこの辺りに隠れたことはあり得ることで、後世の人はより有名な景虎と混同したのではないかと言うのが同氏の推測だ。大師穴は現存するようだ。

現在長尾・神木の一帯に約150所帯の井田姓がある由で、その内の40所帯で井田家親睦会を作っている。毎年六月一族の過去帳にある約150仏の法要を行っている由である。「道精大徳」没後387年、あと十数年何としても400年祭までは続けたいとのことであった。遅ればせながら私も井田家のご先祖の墓所にお参りした。妙楽寺はぼつぼつ紫陽花の見頃を迎えつつある。
(2008.6)

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