太宰治心中の謎(4)
3.七里ガ浜心中(未遂)事件の背景
(1)太宰治(本名:津島修治)の事情
太宰は、弘前高校時代から、青森の花柳界に出入りし、その時芸妓をしていた小山初代と知り合う。1930(昭和5)年弘前高校を卒業した太宰は、4月に東京帝大仏文科に入学。9月30日より、東京東駒形にて初代と同棲。津島家の大反対を押し切り、結婚することを主張する。
その結果、11月9日、初代の件と、非合法左翼活動の件を理由に、実家から分家除籍される。太宰は条件付きで津島家からの仕送りを継続されるが、財産分与についての覚書はなく、経済的な不安を覚える。特に、東大卒業という条件は、東大仏文科には事実上無試験で入学し、授業についていけず、一単位も修得できなかった太宰にとっては、無理な条件に思えた。その一方で、事の次第を知った初代は、無邪気に喜ぶ。それが太宰には不満であった。初代は、結婚の準備のため、一度青森へ帰る。
この年の夏、太宰は、銀座のカフェ「ホリウッド」で田部あつみと知り合っていた。「初代の人の好いゆるんだ笑顔と比べ、あかぬけてきれいな女だ」と思う。「ホリウッド」の飲み代は、田部あつみが立て替えていた。太宰は、つけの支払いに応じることができなくなっていき、11月にはこれが太宰にとって、大きな問題となっていた。
(2)田部あつみ(本名:田部シメ子)の事情
田部あつみは、広島県に生まれ、学業優秀だった。しかし、広島市立第一高等女学校(広島市立舟入高等学校)3年中退後、広島の繁華街新天地の大型喫茶店「平和ホーム」の女給となる。このとき客のひとり高面順三(喫茶店経営者)と知り合い、同棲に至る。
1930(昭和5)年夏、新劇の舞台俳優を志す順三と共に上京。順三は東京で職探しをするなかで、財布を掏(す)られてしまう。しかも、順三の就職口がなかなか見つからなかった。あつみは、家計の一助にと、銀座のカフェ「ホリウッド」に働きに出た。一方の順三は、時とともに愚痴をこぼすだけで、積極的に職探しをすることもなくなり、二人の関係は、崩れかけていた。あつみが、客のひとり津島修治(太宰治)と知り合い、関係を深めていったのは、このような時であった。
この時、あつみはまだ17歳であった。写真をみると、少女のようなあどけなさが残る。そんな多感時代にあったあつみが、こうした状況において、「死」の誘惑にかられたのも不思議ではない。
(3)太宰治が心中を図った狙いとその結果
カルモチンをよく飲んでいた太宰は、これを相当量飲んだとしても、死ぬことはないことを知っていた。したがって、11月28日の田部あつみとの心中は未遂に終わる筋書きであった。しかし、初代にしてみれば、太宰が別の女と事件を起こした訳であるから、婚約を破棄したいと申し出るだろう。そうなれば、徐籍分家も取り消しになる。「ホリウッド」への支払は、津島家が払うに違いない。つまり、この心中未遂事件を起こすことで、太宰は自分の抱えていた問題を解決できるはずであった。
予想どおり、心中未遂事件に対して初代は激怒する。しかし、同年12月、太宰と初代は、仮祝言を挙げる結果となる。津島家は、太宰に初代を押し付け、やっかいばらいしたかった。初代の母は、大地主の津島家との縁をご破算にはしたくなかった。つまり、太宰と初代の意向は無視され、両家の利害が一致する方向で決着をみたのである。ただし、津島家の意向により、初代の入籍は許されなかった。
~つづく~
斎藤英雄