応仁の乱とそれが残したもの(随想)

今から9年前の2008年、紫式部の源氏物語、千年紀で京都を中心にブームとなったが、昨今応仁の乱で全国的に静かに盛り上がりを見せている。室町時代は不人気とされるが、中世史研究家の呉座勇一さんの「応仁の乱」(中公新書)は30万部を超える大ヒット、なぜ売れたのか?

複雑な社会情勢が現代に似ている、SNSで面白さが広がった、などと言われている。

語呂合わせ「人(1)の世虚し(467)応仁の乱」で1467年から11年間続いた日本歴史上最長の大乱である。応仁の乱を簡単に説明するとすれば、室町幕府の管領家筆頭の細川勝元と次席の山名宗全の権力争いに、足利家の家督問題がからみ,京都から全国に戦乱が飛び火し、東・西に分かれて11年間、勝者なしの不毛の大乱ということになる。

足利家の家督問題は次のようである。室町時代の八代将軍、足利義政が政治に興味を失い陰退を決意、息子がいなかったので弟の義視を後継者としたが、義視はすでに出家の身であり、心進まぬまま、将軍職に就く。

その直後、義政の妻・日野富子が男児(のちの義尚)を出産、富子はわが子を将軍にしようと画策、幕府の実力者、細川勝元・山名宗全の権力争いを利用、さらに、畠山家・斯波の家督争いもからみ、複雑を増した。その中を生きた富子は陰謀家とされている。

しかし大乱の素地は幕府の統治そのものにあった。大名連合政権と言われた室町幕府は諸大名に在京を命じ、その動きを監視・統制していた。京都に屋敷を構える大名連は、その経済力を背景に、春には花見、秋には紅葉狩りと交流に始まり、婚姻関係へと進んでゆく。即ち派閥形成へと行き着く。

人の群れるところに派閥が生まれる。今も変わらぬ姿である。

ところで、応仁の乱は他の戦乱と異なり、特別な意義があるという。それは応仁の乱が引き金となって、戦国時代を誕生させたことにある。旧体制を徹底的に破壊した下剋上、最下位の人間が成り上がるチャンスであった。平民には歓迎すべき時代であった。

「歴史は民衆が作る」、マルクス史観の発展段階説に共通するとの見方もある。
また、11年間の大乱に嫌気が差した諸大名は、京都を離れ、領国へと戻ることになる。在京中には貴族や五山僧と蓮歌や茶の湯を楽しむなど、京都での文化生活を謳歌し、教養を身に着けた者が各領国へ、この京文化拡散が現在の小京都成立のベースになっている。

その後の260年の江戸時代に醸成された文化が、近代・現代へと繋がると考えると、応仁の乱は歴史上の転換点とみるべきであろう。

現在小京都といわれる所が45ケ所あります。参考までに列拠いたします。

伊万里(佐賀) 小城(佐賀)  朝倉 (福岡) 山鹿(熊本)
日田 (大分) 杵築(大分)  知覧 (鹿児島)日南(宮崎)
人吉 (熊本) 中村(高知)  安芸 (広島) 大洲(愛媛)
萩  (山口) 山口(山口)  津和野(島根) 尾道(広島)
高梁 (岡山) 松江(島根)  倉吉 (鳥取) 津山(岡山)
龍野 (兵庫) 出石(兵庫)  篠山 (兵庫) 亀岡(京都)
小浜 (福井) 伊賀上野(三重)大野 (福井) 郡上八幡(岐阜)
高岡 (富山) 城端(富山)  西尾 (愛知)  森(静岡)
湯河原(神奈川)小川(埼玉)  嵐山 (埼玉) 川越(埼玉)
足利 (栃木) 佐野(栃木)  栃木 (栃木) 古川(茨城)
飯山 (長野) 村田(宮城)  岩出山(宮城) 湯沢(秋田)
角館 (秋田)

井口 睦康

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