天才と凡人 ~中川牧三―近代日本の西洋音楽の歴史を創った人物~その2
(前号から)諭吉は兄の供をしての長崎遊学(1年間)で初めてオランダ語の原書を読む。
「私は、オランダ医学の先生の家に通ったりオランダ語通訳の家に通ったりしてひたすら原書を読んでいた。原書というものは初めて見たのであるが、五十日百日と勉強を続けると、次第に意味がわかるようになる。」
これが諭吉が初めて外国語の勉強に取り組んだときのことである。中津という田舎から出てきた諭吉にとって、それまで横文字を見たこともなかった。長崎で初めて横文字のabcを習ったのであるが、26文字を習って覚えてしまうまでには3日もかかったそうである。
「けれどもだんだん読んでいくうちにはそれほどでもなくなり、次第次第にやさしくなってきた」
と『福翁自伝』で述べている。
兄の病死により福沢家の当主となり中津に帰っている間のできごとで、私にとっておもしろい逸話が書いてあるのを発見した。
奥平壱岐(中津藩家老)の屋敷でオランダの築城書の新刊を見せられた。貧乏学生の諭吉には買うことも出来ず、だからといって借りられる見込みも無い高価な原書であった。
「なるほどこれは結構な原書でございます。とてもいっぺんには読めません。せめて図と目次だけでも一通り拝見したいものですが、4、5日拝借させて頂けないでしょうか」と言って借り、家に持ち帰るやいなや即刻その原書を初めから写しはじめたのである。200ページあまりのものであったらしい。
「家の奥のほうに引っ込んだきり客にも会わずに、昼夜精一杯、気力のあるかぎり写した」、ばれては大事になる。泥棒の心配もこんなものであろうかと思いながら写し終わるのである。この書を写すのには20日~30日くらいかかったらしい。「まんまとその宝物を盗み取って私のものにしたのは、悪漢が宝蔵に忍び入ったようだ」と『福翁自伝』で述懐している。
(次号へ続く)