笑説「ハイムのひろば」14~トラウマからの解放
トラウマからの解放
あの恐怖のバージョンアップ騒動があってから1年3か月が過ぎたある日、山咲淑子は久しぶりに、金曜日のパソコン初心者塾に参加した。歩こう会のサイトの件でちょっとした打ち合わせもあって顔を出したのだ。パソコン初心者塾は、もともとパソコンクラブが初心者用に設けていた言わば「駆け込み寺」で何か困ったときに相談に乗るクラスであった。パソコン利用についての疑問がある時にはここに顔を出すといろいろと参考になる。
そこで、久しぶりに西野に会った。ひろばの技術的フォローをしている西野は、仕事のない限りつくり隊のメンバーとともに、この時間に顔を出すようにしていた。廃部になったパソコンクラブの意向を受けて、引き続き「駆け込み寺」機能を維持するためだった。元パソコンクラブのメンバーも引き続き指導にあたってくれており役目をはたしてくれていることに感謝している。
「山咲さん、あの時は大変な目に会いましたね。でも滅多にないことなので、むしろ宝くじに当たったようなものですよ。ショックは大きかったようですが、新しいことを覚えたのですから幸運だと思ったほうがいいです」となかば冗談めかして言った。
すると、淑子は「あの時は本当に心臓が止まるかと思いまいした。実は、あれ以来、私、あの同じ画面に入れません。未だに原稿は作ってもアップロードは他の人に任せているんですよ。この状態から脱出できる方法があったら、是非教えていただきたいです」と言う。
この言葉に西野は驚いた。あの騒動の後、各クラブの代表を含めて関係者に集まってもらい説明会を開いた。ことの経緯を説明し、バージョンアップされる意味と、それに対応する方策を説明することで問題なく乗り越え一件落着と思い込んでいた。ところが、この件でのある意味の被害者であった山咲淑子本人にまだ問題が残っているとは夢にも思っていなかった。
迂闊だった。このままでは、折角新しいおもちゃを手にした山咲の楽しみを半減させてしまうだけでなく、歩こう会としても貴重な戦力を失いかねない。何とかして山咲をこのトラウマから解放してあげなければならない。しかし、心理学者でもないし、西野にそんなことが出来るだろうか。
その話を聞いてからは、毎日朝夕の散歩のときに山咲淑子のことが気になる。「山咲さん」「クリック出来ない!」「固定ページだけ」「恐怖」「高所恐怖症」「ジェットコースター」「バンジージャンプ」「スカイダイビング」……「心理」「恐れ」「孤独」「恐怖」「孤独」「恐怖」「孤独」……
「そうだ!」何日かして、西野は一つ思いついたことがあった。
「ひょっとしたら、うまくいくかもしれない!」
西野は、直ぐに山咲宛にメールを送った。
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「山咲淑子さま、
ご無沙汰しておりますが、お元気ですか?
先日、例の件でもう1年以上も固定ページに入れないことをお聞きしました。そんなこととはつゆ知らず、もうすっかり大丈夫と思っていました。バージョンアップのことは私の責任ではありませんが(笑)、貴女が1年以上も悩んでおられるとお聞きし、何もお役に立てず何だか申し訳ない気持ちになりました。
このままでは、貴女ご自身でも楽しみが半減してしまうでしょうし、歩こう会にとっても戦力ダウンになるでしょう。側で見ている私たちにとっても、明るくご活躍されている貴女にトラウマがあるなんて考えたくもないことです。一日も早く脱却していただきたいと思います。
あれから少し考えてみたのですが、ひょっとしたら効果があるのではと思える方法がひとつ浮かびました。もしよかったら、一度試してみませんか?水曜日か金曜日の午前中、お時間のある時に顔を出していただけませんか。
西野敏彦」
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「西野敏彦様
いつもお世話になります。この度は、お気遣いいただいてありがとうございます。固定ページの件は、メンバーにお手伝いしていただいているので問題はないですが、確かに、嫌な経験を思い出してしまうことも事実です。ただ、心理的なことなので、自分自身の問題としてとらえており、この件でどなたかに何かをお願いするとは考えも及びませんでした。
西野さんにそこまでご親切に仰っていただいて、お断りする理由はありません。是非、お願いしたいと思います。お言葉に甘えて、今週金曜日の11時ころにお伺いさせていただきたいと思います、どうぞよろしくお願いいたします。
山咲淑子」
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次の金曜日、11時、山咲淑子は約束通り、パソコンを持ってやってきた。「やあ、いらっしゃい!」西野は笑顔で出迎えて、「こちらへどうぞ」と隣の席に案内した。淑子は同席している他のメンバーとも挨拶を交わし席に着いた。
それじゃ、始めますかと西野が言い、淑子に歩こう会のホームページの管理画面を開かせた。そして、「失礼します」とひとこと言って、淑子のマウスを握る右手にそっと自分の手を添えた。
淑子は「えっ!」と一瞬驚いて少し頬を染めたが、逃げはしなかった。西野の大きな手の温もりを感じて何だか不思議な気持ちになった。そして、少しドキドキした。この胸の鼓動は、開かずの間になっている「管理画面」の中に1年ぶりに入る恐怖感からくるものなのか、それとも西野に手を握られたことからくる恥ずかしさなのか、淑子にはわからなかった。
西野は、「さあ、いいですか、固定ページを開きましょう」と言って、淑子の右手にかぶせた自分の手でリードしながら、カーソルを「固定ページ」「新規追加」と移動して固定ページを新規追加する画面を出した。また、ドキドキした。それは、まぎれもなく1年前の恐怖体験を思い出してのことだった。
「何も起こりませんね。大丈夫ですね!」そして西野はさらに続けた。「一人で出来ないと思っていたことでも二人でやってみると案外できることがあります。ほら、スカイダイビングですよ。スカイダイビングを初めから一人で飛べる人は少ないです。最初は熟練者に体を括りつけて一緒に飛んでもらって、慣れてきたら1人で飛べるようになるそうです。あの話がヒントになりました」
そう言って西野は、種明かしをした。確かに、恐怖感はまだあったが、固定ページに入ろうとしたあの瞬間、孤独ではなかった。自分一人で作業しているのではなくて西野と一緒だという安心感があった。そして、今度は自分一人で同じことをやってみた。何も起こらなかった。もう大丈夫だ。よかった!
「おー!」成り行きを見守っていた周りの何人かから声が上がった。そして、よかった、よかったと拍手も聞こえた。
翌土曜日朝、空は晴れ渡っていた。淑子は、家事とちょっとした用事を済ませパソコンに向き合った。昨日の出来事が夢ではないのかと確かめるように同じ作業をしてみた。結果、そこにはもう平凡な日常しかなく何の変化も起きなかった。1年3か月前の状態に完全に戻っていた。
1年以上続いたトラウマからようやく解き放たれた淑子は、暖かな陽気に誘われて外へ出てみた。玄関を出てふと見ると、正面に青空と握手するように咲くモクレンの花が眩しく見えた。両手の指を組んで空に向かって大きく伸びをした。気分は青空と同じように爽やかに晴れわたっていた。明日からまた、楽しくやっていけそうだと思った。
……木蓮……花言葉……「自然への愛」「崇高」「威厳」」……
~つづく~
蓬城 新