福澤諭吉と一万円札

現在、一万円札には福澤諭吉の肖像が描かれている。だから、若い人の中には、一万円札を数えるのに、「一(いち)諭吉」、「二(に)諭吉」などと福澤をあたかもお金の単位のように使う向きもある。福澤は自分の肖像がお札に使われるであろうことなど知る由もなかったが、彼自身はお金についてどのように考えていたのだろうか。

『福翁自伝』の中には、「青天白日に徳利」という次のような話が収められている。

「藩の小士族などは、酒、油、醤油などを買うときは、自分自(みずか)ら町に使いに行かなければならぬ。ところがそのころの士族一般の風(ふう)として、頬冠(ほおかむり)をして宵(ヨル)出掛けて行く。私は頬冠は大嫌いだ。生まれてからしたことはない。物を買うに何(なん)だ、銭(ぜに)をやって買うに少しも構うことはないという気で、顔も頭も丸出しで、士族だから大小は挾(さ)すが、徳利を提(さ)げて、夜はさておき白昼(はくちゅう)公然、町の店(みせ)に行く。銭は家(うち)の銭だ、盗んだ銭じゃないぞというような気位(きぐらい)で、却って藩中者(はんちゅうもの)の頬冠をして見栄(みえ)をするのを可笑(おか)しく思ったのは少年の血気、自分独(ひと)り自惚(うぬぼれ)ていたのでしょう。」

当時、武家の考えは「金などというものは俗っぽいものだ」と、金を下賎なものとして見下げる向きがあったのだろう。しかし、福澤はこのような考えに与することなく、自分の金を使ってものを買うのがどうして恥ずかしいことがあるものか、金を払わないなら泥棒だが、ちゃんと代金を払うのに頬かむりをしたり、夜になって行ったり、それこそ泥棒のような真似をするのはどうしても分からない、だから自分は昼間、頬かむりなどせずに、どうどうと使いに行ったと言っている。

これは今考えれば全く当たり前のことであるが、この時代、仕来たりの厳しい士族社会において、他の人間と別なことをするのは勇気がいるものであったであろう。しかし、むしろ福澤は、お金を下賎なものとみたり、お金を使うのに格好をつける姿をおかしいものと喝破していた。同時にお金の重要さに気がついていたことを示すエピソードである。

『福翁自伝』には次のような話もある。兄が福澤に「将来、なにをするつもりか」と尋ねたところ、福澤は「日本一の大金持ちになって、思う存分金を使ってみたい」といった答えをしたところ、兄はこの返事が気に入らず、不機嫌になったとかいうものである。この辺は、多分にお金を下賎なものと見がちな武士の考えを受け継ぐ兄に対する反発というか、あるいは常識に対する青年らしい反骨精神と、お金を実用なものとして捉えている福澤の考え方が窺えて、興味深い。

福澤は大阪で生を受けるが、それは父、百助が中津藩の会計官吏で、大阪の蔵屋敷にあって藩債などの折衝役を務めていたからである。百助は武士であったが、その家格は低く、金銭を扱う役回りは祖父の代から世襲であった。百助は学者肌でこの仕事は必ずしも意に添うものではなかったが、忠実に職務を果たしていた。しかし、44歳で突然の死を迎えたとき、諭吉は生まれて一歳半であった。寡婦となった母は、二人の息子と三人の娘を連れて中津へ帰ったが、その暮らし向きは貧しかったために諭吉の教育のために使えるお金などあろうはずがなく、彼が学塾に通ったのは普通の子より十歳も遅れて、十四、五歳になってからのことであった。

明治になって、福澤は『学問のすゝめ』 など著作が多く売れ相当な収入を得たが、必要な時には惜しげなくそれを使った。慶應義塾は、1880年頃、世の中が極度のインフレに陥り、入学する生徒が激減したために、財政不足に直面し経営が困難になった。そのとき福澤は私財を投じた。それでも経営には足りなかったが、教授陣が給与を三分の一まで引き下げることを自発的に申し出、また卒業生を中心に広く維持金を募ることによって、危機を回避できたと言う。

福澤はまさにお金をまっとうに稼ぎ、生きたお金を使ったと言える。それは自伝で、彼が語った通りの合理的な考え方を反映したものであった。

筆者は日頃一万円札を費消する際にいちいち諭吉に思いを馳せるなどということはしていなかった。しかし、これからはいかにお金を有効に使うか、ということにすこしでも思いを寄せるべきであると考えた。 (了)

風戸 俊城

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