イラン追想(その3) 古代ペルシアの末裔――イラン
イランに赴任したのは、1977年、25歳のときだった。
当時、巨額の石油収入が雪崩を打つように中東産油国にもたらされていた。日本経済の尖兵として、オイルマネーの還流を実現すべく、中でも特に投資旺盛なイランには日本人ビジネスマンが陸続と送り込まれていた。
そして、初年兵とも言うべき入社3年目の新人にまで過酷な中東ビジネスの洗礼を浴びさせたわけだった。言うまでもない、自分のことだ。
それまでイランに関する知識は皆無に近かった。イランの古い国名はペルシアであるが、古代ペルシアについて述べておこうと思う。
テヘランには羽田から世界一周便のパンナム001便に乗って赴任した。長い旅だった。香港、バンコク、デリー、カラチなどを経由してようやくテヘランに着いた。経由地を重ねるたびに、アジアの湿潤地帯から乾燥した砂漠地帯に変化していくのがわかった。
勤め先のイランでの営業拠点である現地法人で働き始めた頃、現地スタッフのひとりが「アッシリア人」と聞いて、心底驚いたのをいまでも覚えている。
なぜそんなに驚いたかというと、アッシリアはオリエントを統一した民族であると、高校の世界史で習ったらだ。
前7世紀に、文明の発祥であるメソポタミア(チグリス川とユーフラテス川流域)とエジプト、そしてシリア・パレスチナなどにそれぞれ栄えては滅びた国々を初めて統一した国家がアッシリアだった。しかしアッシリアは過酷な圧制を強いたために服属民が反乱を起こし、エジプト、リディア、新バビロニア、メディアという四つの国に分裂した。
それらを再び統一したのが、「アケメネス朝ペルシア」だった。前525年のことだ。西はエーゲ海北岸から東はインダス川までひろがる一大版図であった。首都はスサであったが、やがてダレイオス一世のときに全盛期を迎え、祭政の都としてペルセポリスを建設した。
この一大帝国も、栄枯盛衰のことわりを免れることはできなかった。ギリシアとの戦いであるペルシア戦争で敗北し、やがてアレクサンダー大王によって滅亡させられる。アレクサンダー大王の東征は前330年頃のことだ。
ことほど左様にイランの歴史は古い。ちなみにイランの語源は、アーリアである。彼らはインド・ヨーロピアン語族の民であり、言語はペルシア語(ファルシーと呼ぶ)を話し、アラブとは異なる民族、言語である。従い、古代ペルシアの末裔であるイラン人は、殊のほか誇り高く、勇猛な民族の血を引いている。彼らが現代においても、交渉上手で、戦いに滅法強い所以だろう。
古代ペルシアでは、後に「ササン朝ペルシア」という国が出現するが、それについて述べるのは別の機会にしたい。
写真は、アケメネス朝ペルシアの版図と、復興されたペルセポリスの現在の姿を示している。
風戸 俊城