イラン追想(その1) 革命前のイランにて

1978年のことだ。その日がいつかを覚えていない。しかし光景をありありと思い浮かべることが出来る。

当時僕はイランの首都、テヘランに駐在していた。その日はたまたまテヘランから古都、イスファハンに出張に来ていた。

イスファハンはテヘランから600kmほどに南下した位置にあり、飛行機で約一時間で到着する。かつて16~18世紀前半にかけてこの地を支配したイスラム王朝であるサファビー朝のアッバース1世が、1598年にこの地を都と定めた。

ペルシア文明はかつて栄華を極めた。ペルシア文明の芸術文化の豊かさが特に偲ばれるのが、ペルシア絨毯の模様やモスクの壁面やドームに見られるモザイク模様である。渦を巻くようにつなげる蔓(つる)のデザインはシルクロードから日本に渡り「唐草文様」と呼ばれ、日本の風呂敷にも使われることになった。

さて、仕事を終えた夕方、泊まっていたホテルで時間をつぶしていた。飛行機のチェックインにはまだ十分な時間があったが、飛行場の待合室ではなくホテルのロビーでゆったりしたいと思ったからだ。

ソファに深く腰を掛けていたとき、甲高い叫び声が響いた。ホテルの一角から突然出火したのだ。あたりが騒然となった。

僕は慌ててタクシーをつかまえ、飛行場に向かうこととした。このままホテルに留まっては面倒なことに巻き込まれかねない、そんな直感が働いたのだ。タクシーの窓越しには、多くの人が逃げ惑う様子や消火活動が始まっているのが見えた。

あとでわかったことだが、ホテルは放火されたのだった。当時イランの地方都市で反政府運動の胎動が秘かに始まっていた。その後、反政府ののろしはやがて燎原の火のように広がり、テヘランに向かうことになるのだが、まだその予感はなかった。

その年の後半には反政府運動が全土に拡がり、やがて夜間外出禁止令、戒厳令が敷かれる。このとき curfew(夜間外出禁止令)、 martial law(戒厳令)という英単語を覚えた。反政府運動が勢いを増していき、年も押し詰まっていく中、深夜に町の遠くで銃声が響くのを聴くようになった。パーン、パーンと乾いた高い音が、夜間外出禁止の町中で鳴り止まなかった。

その後、年末に、テヘランを脱出してイスタンブールに緊急避難することになる。今はなきパンアメリカン航空の特別救援機に乗って。その時、evacuation(撤退、避難)という英単語を覚えた。その脱出劇については、またの機会に譲ろう。

風戸 俊城

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