新加坡回想録(39)カラオケ
上司からシンガポール転勤を告げられたのは、名古屋支店に勤務中の時でした。航空券を手配してくれる総務部の女子社員が「シンガポールってマレーシアだったわよね?」というほど一般の日本人にはまだそれほど馴染みのない国でした。
その6年前に大阪から名古屋に転勤する頃からカラオケが大流行しており、名古屋支店のお客さんたちも連日のように夜遅くまでカラオケに興じていました。そんな状況の中に飛び込んでいったので、私自身もその波に飲み込まれていきました。夕方、5時頃になると得意先がふらっと事務所に現れ30分程よもやま話をし、最後に来月分の契約を決めると、「さあ、飯でもいこまいか!」となります。食事の後は、当然のごとくカラオケに行こうと誘われ、女子大小路の夜に繰り出すのです。
転勤して間もない頃は出来るだけ早く新しい職場に溶け込もうと懸命になっていたこともあって誘われれば断らず、家庭のことも顧みず毎晩のように午前様になっていました。若い頃フォークバンドをやっていたこともあって歌は昔から好きでしたので、よくもまあ毎晩毎晩飽きずにつづくなあと思われたかもしれません。しかし、~芸は身を助ける~ではないですが、得意先の社長や部長と早く親しくなるための仕事のつもりでした。
海外出張して初めて歌を歌ったのは、東マレーシアサラワク州シブにあるレストランでした。メーカー兼輸出業者である福建人経営の会社を訪問し、晩餐に招待された時にそこにいたバンドをバックに歌を歌えとねだられた時でした。まだ中国語は学び始めていませんでしたが、いつか役に立つだろうと覚えていた「榕樹下(北国の春)」を歌うとこれが受けました。
それまで、彼らに対して「你好」も言ったことがなかったのに、いきなり中国語で歌いだしたので驚いたのでしょう。そしてご存知の通りこの歌は千昌夫の大ヒット曲で、中国でも東南アジアでも結構知られていたようです。だから、バンドに歌の題名を言うとすぐさまOKと言って前奏を始めたことでもその人気ぶりがわかります。それからしばらくして、カラオケ機も導入されるようになりました。
その頃シンガポールでも当然カラオケは流行っており、日本でいういわゆるカラオケスナックはたくさんありました。日本ほど高くはなくたしかボトルがあれば20Sドルほどで飲めたと記憶しています。中にはテレサ・テンばりに「つぐない」を日本語で上手に歌いこなす女性がいたりして結構盛り上がっていました。私は日本でのオーバーワーク(カラオケも仕事だと思っていましたから!)のこともあったので控え気味でしたけど。
(西 敏)