荻悦子詩集「樫の火」より「春の来方」

春の来方

何人目かの来訪者がくれたのはくすんだピンク色の
缶だった ピンクの缶には絵や文字がなくて 中に
カードが入っていた カードには花を咲かせた木が
描かれていた 枝ごとに花の形が異なり 何の花と
もつかない花が鈴なりに垂れている それが店の紋
章らしかった 西洋菓子と呼ばれるらしい菓子が仕
切りのない四角い缶に詰まっていた 様々な形をし
て それぞれに違う模様が焼き付けられていたが
どれも同じような味 一様に固かった それでも幾
日か 私は西洋菓子を齧り続けた 明治時代の味の
ままかもしれないなどと言いながら わざと前歯で
噛んで しかめ面をしたりした それほどに時間に
倦んでいた 谷の向こう側 こちらと同じような住
宅地の端にある低い丘を 沈んでいく夕陽がいっと
き言い表し難い光で包んだ 正面に見える斜面の木
木が芽吹き始めていた ゴールド・オーカーやベー
ジュが混じる優しい色をして 梢がふわっと空に浮
かんでいた あったような無かったような幸いを思
い出させ これから先の予兆のようにも見えた そ
のおぼろな一群にラメが振り撒かれた
それからまた何人目かの人が紙で出来た楕円形の箱
をくれた 細かく仕切られてクッキーが行儀よく並
んでいた みな柔らかくてサクサクしていた これ
が現代のクッキーよね 独りでそう呟きながら ま
た幾日か サクサク シュッシュ 色々な香りや味
がする菓子を食べ続けた 灰色を凌いで紺茶の色が
層状に伸び上がる夕暮れの空に 雲が微妙に色を変
えながら南の方から動いてきた むかし母にあげた
グレーのスエードの手袋のことを思い出した 母は
それを瓶から漏れたパイナップルの果汁で台無しに
してしまったのだ おばあちゃんが瓶詰を持たせた
から…… 手袋をその後どうしたのか 母はいっさ
い話さなかった 妙だったとまた思った

黄色の空に 滑らかなクリーム状の白い雲が溶けか
かり 淡い薔薇色に染まりながら広がった 薄くな
って それでもなんとか繋がっていた 空を夜に返
す直前 陽の光は丘の上の塔屋があるマンションを
西欧の城のようにも見せた 樹の下の暗がりで水音
がした かすかに人の言葉が混じっていて この空
は遠い地の廃墟や仮の幕屋の上にも繋がっていると
囁くらしかった 丘が次第に低くなり緩やかに消え
る東南の方向 空がより広く見え 白から墨色 黄
から赤 青から紫紺へ 色彩が入り乱れ 明るく暗
くすさまじく変転する くり返しくり返しこの世の
終わりが暗示される 暗い空の水位を私は目で越え
た それから心で 身体で 明るい光は 嵩を増し
てくる暗い波に覆われ 波の縁で鋭く輝いたあと
波の裏側に退いていった 妖しく変幻する空に身体
を掬われ 光の裏打ちを失くした雲の端の方 漂う
私は小さな魚の形をしたチョコレートを手にしてい
た 何人目の人がくれたものか もう定かではなか
った

荻悦子(おぎ・えつこ)
1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

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