荻悦子詩集「樫の火」より~「終わりの夏」



 終わりの夏

従妹はバッハばかり弾いていた
少し速いんじゃない
指が心持ちゆっくり鍵盤から離される
私は花瓶を持ち上げる
シチリアのことはよく知らなかったが
波の中に島の形が浮かんで消えた
断崖の上に緑の土地があり
大きな魚が波間を飛ぶ
潮風に晒される人の動きは敏捷だろうに
シチリアーノ
指を伸ばしぎみに怠惰に弾くこともできる
五裂掌状の葉の陰に無花果が色づき
萎れた花ごと花瓶の水ごと
終わりの夏をその根元にあける
揚羽蝶が尖った飛び方をした
母は黙ってかやくご飯を混ぜ
父は車を置いてどこへ行ったのか
野茨や柳の影を深い緑の淵に沈ませて
太陽が山の向こうに隠れる
石の河原にしばらく光が残る
もっと別な一日があるだろうか
望みというものも
そのぼんやりした明るみに似ていた

荻悦子(おぎ・えつこ)
1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

 

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