「宮沢賢治」人気の秘密 (1)
はじめに
宮沢賢治について調べてみるきっかけになったのは2003年3月、岩手県の花巻への旅であった。賢治の足跡をたどるうちに、彼の生き方に興味を持った。賢治について調べれば調べるほど、大いに共感を覚えた。賢治が亡くなって既に75年が経過したが、彼の人気は衰えるどころか、むしろ高まりつつあると言ってもよい。
例えば「絵で読む 宮沢賢治展 - 賢治と絵本原画の世界」が、2008年7月から11月にかけ岩手、神奈川、山形、静岡、新潟、山形、東京、兵庫、埼玉(開催順)で開催されたが、大変な賑わいであった。私は、8月12日から21日まで、東京の日本橋三越本店新館ギャラリーに見に行ったが、あまりの混雑ぶりに、作品に近づくのも難しいありさま。
また、この原稿を書くにあたり、昨年(2008)10月に、花巻市郊外の花巻農業高校内にある「賢治の家(羅須地人会(ルビらすちじんかい))を訪ねたが、平日にもかかわらず、タクシー数台で観光客が押しかけているのにも、驚いた。この地で、農文協と関係のある方に偶然出会った。しばしば農文協の雑誌「現代農業」に書かれている伊藤正男さんである。伊藤さんは、花巻で新しい農業のあり方を提唱されている方。伊藤さんから、「なんで、こんなに宮沢賢治は人気があるのですかねえ」との質問をされた。私は、いろいろなことが頭を駆け巡ったが、答えに窮した。この伊藤さんの素朴な問いに対して、私なりの回答を整理してみようと思った。
- 「雨ニモマケズ」に投影された賢治の生涯
花巻市の郊外、下根子(ルビ しもねこ)は宮澤家の別荘があった場所である。彼が羅須地人協会を設立し、人生において重大な事件が数多く発生した場所でもある。今では、高村光太郎の筆により、あの有名な「雨ニモマケズ」の詩が石碑として残されているばかりである。
宮澤賢治の名前を知らぬ人は、いるまい。中でも「雨ニモマケズ」で始まる詩は、多くの日本人の心を打つものである。原文は、賢治が結核で病の床にあった時に、手帳に書かれたものであり、彼の死後発見された。決して達筆ではない賢治が書いた詩を、本人にとっては不本意かも知れぬが、現代仮名遣いで、カタカナの部分を漢字に改めて以下に記す。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち
欲は無く
決して嗔(ルビいか)らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
良く見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱(ルビかや)ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りの時は涙を流し
(手帳には、「ヒドリノトキハ」とあるが、「ヒデリ」の書き間違えとの説が有力)
寒さの夏はオロオロ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
苦にもされず
そういう者に
私はなりたい