野口英世とアメリカ(12)
10.人生の不思議
英世の人生を振り返ると、「人間万事塞翁が馬」という言葉が頭をよぎる。彼が、1歳半で火傷をしたことは、大変な悲劇だ。母シカは、一生自分の不注意を責め続けた。「このような左手では、鍬を握れない。百姓はできないから、勉強させねばならない」と思いつめ、学費を稼ぐために必死に働いた。もし、やけどをしなかったならば、英世は単なる百姓で終わったかもしれない。
また、彼は帝大医学部を卒業し、医者にならなかったため、日本でその力を発揮できなかった。もし、世の中でいう順調な人生を歩んでいたら、日本の大学で、医学部の教授にでもなっていただろうが、世界的に著名な研究者としての名を残すことはできなかったと思われる。
人生には、「正解」というものがないとつくづく思う。人生の目的は人により様々だが、名声を後世に残すという意味では、英世ほどの成功者は、極めて希と言えよう。彼のゴールが事前に明らかであったとしても、そこに至る道のりは、通常の人間では全く思いつかないものであった。
彼が、細菌学に身を投じたのは、左手が不自由で臨床医は務まらないと思ったことと、細菌学が世の中の脚光を浴び、そこで成果をあげれば、目立つことが間違いなかったからである。英世は身長153cmと当時の日本人としても、小柄な方であった。足の大きさは23cmしかない。しかし、相当な負けず嫌いであり、かつ自己顕示欲が強かった。そうした性格の英世としては、何としても世の中で目立つ功績をあげ、かつて自分を馬鹿にした人々を見返してやろうという気持ちがあったに違いない。そして、彼は日本にたった一度だけ帰国した時、見事にその思いを達成することができた。
英世が日本に一時帰国してからの研究生活は、あまり成果のあがらないものであった。それは、彼が追いかけていた病原菌が当時の顕微鏡では見ることのできない、微小なウィルスであったためである。英世は、黄熱病の病原菌を発見したと発表したが、それに対する疑問は、学者の間で年とともに高まっていった。彼が危険を犯してまでアフリカに黄熱病の研究に出かけたのは、そうした批判を抑え、自分の研究の正しさを実証することが第一の動機であったと思う。
また、彼の人生の知られざる面を覗き見ると、人間としては失格でないかと思える時もある。金の面での節操のなさや、自分の実績を誇張して書いた手紙を読むと、 “Honesty is best policy”(誠実こそが最良の術である)という英世の残した言葉も、白々しく聞こえる。その一方で、頼る人がなく、自分で途を開くしかなかった英世は、アメリカで生き残るために、誠実さが結果的に生き残る方策として最良であると感じたのかもしれない。動機は、自分の研究成果を守るためであったとしても、黄熱病を根絶し、人類に貢献したいという菩薩の境地に至ったこともあるであろう。それだからこそ、彼の研究姿勢は国境を超え、アメリカ、南米、アフリカの人々に感動を与えたに違いない。
片道の旅費しか持たず、受け入れ先からの招待状も来ず。現地に行ってみると、厄介もの扱いされた英世の心細さはいかばかりであったことか。日本で習った英語など、最初はそれほど通じなかったに違いない。食べるものさえ事欠いた状況から、世界に認められる業績を残すまでの艱難辛苦は、想像に余りあるものがある。英世の人生を調べてみると、彼の生の人間としての苦しみ、弱さがわかる。それとともに、今回改めて知った異国での超人的な努力には、ただ驚くばかりである。
英世の本当の素晴らしさは、日本でよく知られていなかったアメリカでの生活にあったように思う。その活躍ぶりは、当時とは比較にならないほど国際化の進んだ今日でも、キラ星のごとく光る記録である。51歳でアフリカの地に倒れるまで、ひたすら走り続けた生涯に、あらためて大きな感銘を受けた。
野口英世とアメリカ (完)
齋藤英雄