シンゴ旅日記インド編(75)インドの南北関係の巻
私が住んでいた愛知県はその昔に『尾張』と『三河』に分かれていました。
名古屋のある『尾張』は商人の国、岡崎がある『三河』は農民の国です。
三河の人は尾張の人をずる賢い嘘つき、金の亡者と思っていました。
それが岡崎の味噌小屋に忍び込んだ秀吉の物語の現れていると司馬遼太郎が『街道を行く』に書いていたと記憶しています。
秀吉は店の人に見つかり、井戸に落ちたと見せかけて石を投げ込んで逃げました。
その味噌屋さんは今でもあり、その井戸も残っています。
そして矢作川を渡る国道一号線の橋の尾張側に秀吉と蜂須賀小六の石像が建っています。
戦国三英傑の信長、秀吉は尾張の人で、次の家康は三河の人です。
前者は2代と続かず、後者は15代続きました。
楽市楽座を行った尾張武士と鳴くまで待った三河武士の違いでしょうか?
そして言葉も尾張弁と三河弁では違うのです。すみません、前置きが長くなりました。
インドでも『北の人』は『南の人』に嫌われているようです。
北の人はずる賢い商人、嘘つきのように見られています。人種が違うのでしょうね。
インドは昔アーリア人が北西からやって来て領土を広げて行きました。
金属鋳造をもった遊牧民であるアーリア人が先住民であり農業国であったムンダ人やドラビタ人を征服して行ったのです。
そして先住民は南へ、南へと追われるように逃げていったのです。
ですから今の南インドの人たちにとって北インドの人は坂上田村麻呂、織田信長のような存在なのではないでしょうか。
インドの公用語のヒンディー語は北インドの言葉です。
インドでは州毎にそれぞれの地方語を話します。
なぜならインドは独立後の1956年に州を言語別に再編したからです。
そして、その時にムンバイとパンジャブは2言語の州でしたので、その後にムンバイはマラティー語のマハラシュトラ州とグジャラティ語のグジャラート州に別れ、パンジャブはパンジャピ語のパンジャブ州とヒンディー語のハリヤナ州に分かれました。
現在インドには28州がありますが、言語はヒンディー語が公用語で、英語が補助公用語です。これらを含めて18の主要言語と800以上の方言があると言われています。
そして南インドにはヒンディー語を話せない人がいると言います。
ヒンディー語を教えない学校もあるそうです。
インドの識字率は65%と言われますが、これは地方語を含めての数字です。
英語もヒンディー語も自分の州の言葉も話せる識字率は何%でしょうか?
英語を話し、書ける人は10%に満たないのでは無いでしょうか?
うちのスタッフはマハラシュトラ州生まれです。
この前チェンナイに一緒に出張しタクシーに乗ったら、運転手が何を言っているのか分らないとブツブツ言っていました。
彼もチェンナイには13年前に一度来たことがあるだけなのです。
チェンナイはタミール・ナドゥ州です。タミール語なのです。
南インドにはドラビタ系の4言語があります。
タミール、カンダナ、テルグーそしてマラヤラムです。
それぞれ文字が違うのです。
チェンナイ空港のフライト掲示板には3つの文字で表示されます。
英語、ヒンディー文字、タミール文字です。
右の写真はバンガロール空港での水を飲む場所の表示です。
英語、カンダナ字、そしてヒンズー文字表示です。
インド人で営業をする人は5言語は話す必要があると言われます。
英語にヒンズー語、自分の州の言語と南インド、東インドの代表的な州の言葉です。
日本が明治に入ってまず行ったことは言葉の統一でした。
軍隊で命令が方言で指示したりしていては統率が取れないからです。
インドの言語事情、南北問題がこれからの国の発展の妨げにならなければいいのですが。
丹羽慎吾