私の履歴書~土谷重美①村の時代
1.村の時代
私は、奈良県吉野郡西吉野村大字宗川野に農家の長男として生まれた。昔は秘境と呼ばれた十津川村の入口に当たる。人間より猿の方が多いと言われる過疎の村の生活は、縄文の昔から平安を経て江戸、明治まで殆ど変わることなく受け継がれてきたと思われる。
結婚も精々が隣の集落辺りまでで、村中の人が濃淡はあれお互いに親戚同士。その中で本家筋など旧い家は日当たりの良い山の上に、新宅や分家は日照時間の少ない谷沿いに家を構える。車社会に入って利便性は逆転したが、徒歩の時代は隣の集落に行くのに尾根伝いに行けば近いものを、川沿いに歩けば相当の距離を歩かなければならない。
この様な村では、何キロ離れていても、どこの爺さんは昔どうだったとか個々の家の歴史を皆が共有している。所謂、村落共同体と言う奴で家族生活の延長に村の生活が在る。個人の生き方を主張する前に村人から「お前はこう言う人間」と規定されてしまう。
私もお祖母ちゃん子で、先祖代々の話、従ってお前はこの様に生きるべしと散々教えられて育った。この様な共同体で育つと、子供と大人の境界がはっきりしない。それ故にわざわざ元服式の様な儀式を設けて、「今日から大人」と無理に線を引いたものと思われる。
小学校は、全校生徒165人、中学校は85人。小学校から中学校に上がる時には山の裏側の集落からの6人が増えただけで今でも同窓会は「宗川野小、中学校同窓会」となっている。
当時は、集団就職の時代で、義務教育を終えたら先生が大阪の町工場に生徒を配って歩く。徒弟制度の時代で、町工場に行った者は皆工場の二階に住込みで暮らし兄弟子からの虐めを受けながら修行したと聞く。そんな中で、担任の先生が「せめて高校ぐらいは」と勧めてくれて私はバスで1時間かけて五條高校に通うことになった。通える高校はここしか無かったし、他の高校と見比べる知識も無かった。クラス31人の内、高校に上がったのは5人(普通科4人、商業科1人)。
受験戦争に入った時代でどこの高校でも特別のクラスを作って大学受験に備える。私も選抜クラス55人の中に入れられたが、高校の次は就職と思い込んでいたので、進路を分ける2年の時に就職対象の一般クラスに移った。高校は普通科7、商業科2、女子科2の11組で同じ村から行った仲間もバラバラ。クラスの中に誰も友達は居ないし、通学に1時間以上も取られては部活も出来ない。就職しか考えてなかったので勉強をする訳でもなく、退屈な高校生活を過ごした。
3年になって就職指導の担任から高卒と大卒の社会での扱われ方の違いを聞かされた。関電の採用担当が来た時の話『この子は優秀できっと貴社の経営に資するでしょう。』『いや、幹部候補には大卒を採用しているから、高卒はまじめに集金さえしてくれれば良いのですよ。』家業も高度成長で順調だったこともあり、手に職をと言う祖母には反対されたが大学を目指すことにした。暗く寂しい高校生活の反動で大学の新しい学園生活への期待は膨らんだ。私が突破口を開いたことによって続く妹や弟は迷うことなく大学を目指した。
小学校の後半から通知簿には決まって「子供らしくない。」と書かれた。両親はその意味を図りかねていたが今から思えば太宰治のようなところがあったのではないかと思う。先生が冗談を飛ばして教室中が笑っても、一人白けているところがあった。
それと体育、なぜか村の同学年は体格が良く県下でも有数の健康優良児クラスだった。私は背も高く小学校の頃は運動会でもそれなりには走ったが、毎日数kmもかけて山道を通学してくる同級生との体力差は開く一方で通知簿の体育の評価はいつも中の下くらい。その上、材木を扱う父は、山仕事の手伝いに私よりも力の強い弟を連れ出すことが多く、体力に対する劣等感は愈々強まるばかりだった。
村の中で力が無いと言うことは男として認められないことであり個人の主張が出来ない。人足に駆り出されても村の人たちとの会話には入って行けなかった。このことは後々まで続き、大学に行っている時も皆が働いている時に遊ばせて貰っていると言う気後れがあり、バスを降りてから4kmの道のりを村の人と顔を合わせるのが嫌さにいつも最終バスに乗って街灯も無い暗い山道を月明かり頼りに帰った。
~つづく~
土谷重美