福澤諭吉、大隈重信と伊藤博文
NHK連続ドラマ「あさが来た」の放映時、毎朝楽しみに物語を追って観ていた。
このドラマでは江戸から明治にかけての貴重な歴史的事件や人物が扱われ、大いに興味と関心をそそられたものだった。
ドラマには福澤諭吉も登場した。一方大隈重信と言えば、ドラマの主人公が日本で初めて女子大学校設立を援助する有力者として描かれた。
写真は、実際に日本女子大学校設立のために後援者の間に回された奉加帳である(日本女子大学所蔵)。そこには、明治の元勲、重鎮がずらりと列なっており、歴史的にたいへん価値があるものであることが判る。どういう人物が寄付をしているかと言えば、たとえば次の通りである。
山縣有朋 第3代、第9代内閣総理大臣
西園寺公望 第12代、第14代内閣総理大臣
伊藤博文 初代、第5、7、10代内閣総理大臣
副島種臣 第3代外務卿、第7代内務大臣
土方久元 第2代宮内大臣、第2代農商務大臣
さらに、左端には、三井八郎右衛門が小石川の土地を寄付するとの記載がある。三井八郎右衛門は三井家当主が代々名乗った名前である。
ドラマでは、伊藤博文卿から女子大学校設立を支援する旨直々の言葉があったと伝えられ、大隈邸に集まった関係者や大隈夫人が大喜びする場面が描かれた。
しかし、実際は、大隈重信や夫人は伊藤博文が大嫌いだったのではなかろうかと、若干の疑問を抱いたのも事実である。
以前に寄稿したように、大隈重信は明治十四年の政変(1881年)の影響を受けて、実態としては伊藤博文によって追われるようにして大蔵卿を退任した。このとき、大隈は伊藤とは袂を分かった。そしてその後、10年後の国会開設に向けて、立憲改進党を結党し、独自の政治活動を展開していった。
しかし、なにが起こるか分からないのが政治の世界である。その後の政治情勢は変遷を遂げ、日本にとって諸外国との不平等条約を改正することが国家の一大命題となっていった。このため鹿鳴館外交を初めいろいろ策を施すがうまくいかなかった。
結局、明治20年(1887)9月に、条約改正交渉失敗の責任を取る形で、井上馨外務大臣が退任した。盟友井上に引導を渡したのは伊藤博文自身であった。しかし決して条約改正交渉を断念した訳ではなく、後任の外務大臣の人選に着手し、白羽の矢を立てた相手が他ならぬ大隈重信であった。昨日の敵は今日の友を地で行くのが政治の世界だ。
当時の日本の近代化への歩みと、そして命を懸けて行動していた政治家の群像は興味深く、そのような時代背景の下、ひとりの日本人女性のたくましい生き方を描いた点で、「あさが来た」は極めて意義深いドラマだった(了)
風戸 俊城