イラン映画「少女の髪どめ」を観た。「運動靴と赤い金魚」で高い評価を得たマジッド・マシディ監督の作品だ。
物語のテーマは、月並みな言い方だが、無償の愛だ。
しかし、無償の愛、報われない献身など可能なことだろうか。特に現代の日本に生きる我々とイランやアフガニスタンはあまりにも縁遠い。風俗、習慣などもなじみがない。映画の登場人物を我が身に置き換えることなど想像がつかない。それでも、訴えかけてくるものはなんだろう。
暗く悲しいストーリーの背景には、アフガン難民がイランに出稼ぎに来ていた時代(2000年代初め)の社会状況が横たわっている。
この物語を不器用なイラン人青年と難民の少女のラブストーリーと言ってしまうと表現が美しすぎる。一方通行で、不格好な、へたすればストーカー紛いの青年の一方的な思い込みと言うと身も蓋もないだろうか。
ネットでの感想を見てみたところ、おそらく若い人であろう、このような感想が散見された。
「よく出来た切ない青春ラブストーリーやけど、惜しいなあ・・・恋に落ちるシーンのあのヒドさはなんやねん!あそこでドキッとさせてくれんと・・・。」
これを読むと、イラン初め中東に住んだことがある僕は思わず言いたくなる。
「いや、違うんだ。そうじゃないんだよ。」
イスラーム世界は男社会である。映画にも女性は遠景にしか登場しない。主人公が心を惹かれたきっかけは、少年だと思っていた相手が少女だった。うら若き少女を間近に見ることや接することすらなかった主人公にとって、自分が憎み、手を挙げ、仕打ちをした相手が、長い髪を梳く美しい少女だったことを知った時の驚きがどれほどのものだったか。現代の日本にいる若者にとって、その主人公の驚きが憧憬へ変化したことを想像するのは難しい。
監督の風と雨の表現が優れている。少女であることを発見する場面では、カーテンが風に艶かしく揺れる。この風は、物語の結末でも少女の存在を表わすシーンで使われる。
そして、雨。原題のバランは少女の名前であるが、雨という意味のペルシア語である。
物語のエンドで、アフガニスタンに帰っていく少女が足を取られ靴が脱げる。駆け寄って靴を拾ってあげる主人公。少女の去ったあと、泥道についた少女の足跡の窪みに降りしきる雨が落ちる。
風戸俊城
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