荻悦子詩集「時の娘」より「扉」

でだしが肝心なのだ
低く遠慮がちに 甘すぎてもいけない

「ミシュレです 奥さん」
「どなた」 「ミシュレです どうか扉を」

三階からの声は「何」「誰」を繰り返した挙句
冷淡な「ノン」 インターフォンは切られてしまった

玄関ホールのゴムの樹の葉の埃
彼は隣のボタンを押したことに気付く

再びインターフォンに向かう
ギイッーと大仰な音で内側から開く自動扉

迎えに出たN夫人は隣の扉を指して言った
「東洋人が越してきたのよ」

彼らは知らない その扉の内側で
さっきの「ノン」の女が耳を欹てていることを

女はさらに耳におさめた
N家の扉の閉まる音 N家の犬の鋭い一声

床掃除に戻る女に扉一枚がかきたてるあらゆる妄想
コンクリートの中庭に惨劇を待って凍る彫像

荻悦子(おぎ・えつこ)
1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

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