ロックフェラーの素顔(7)

5.巨大な富の重圧

1) 寄付を求める人々

 1980年代後半になると、JDRは、大富豪としてもマスコミに取り上げられるようになった。それとともに、彼のもとには、寄付を求める人々が押し寄せるようになる。彼の出かけるところには、そうした人々がまとわりつき、彼の貴重な休息の時間すら奪っていった。また寄付を求める手紙は、ひと月に数万通の数にのぼったという。当初、JDRはこうした寄付の要請を検討し、小切手を送り、礼状を読むという作業を、自分一人でこなしていた。それは、「自分の富は神から与えられたものであり、その管理を神から任せられている」と考えていたためである。こうした考えに加え、完璧主義者であるJDRは、事業で利益を上げること以上に、寄付行為に神経を使っていた。

しかし、増え続ける富と寄付の要請に、彼が1人で立ち向かうことには限界が見えていた。1890年代に入ると、彼はストレスのため、胃腸の具合が悪くなった。1891年には、ついに医者の指示で仕事から離れ、8カ月間療養生活に入るはめとなった。そのお陰で、健康は取り戻したものの、それ以降は、体調を崩してはいけないと、ひどく神経質になっていく。

JDRは、フレデリック・ゲイツに寄付行為の手伝いをしてくれるように求めた。ゲイツは、元バプテスト派の牧師であり、1888年に設立された「米国バプテスト教育協会(ABES)」の事務局長を務めていたが、彼はこの申し出を引き受けることにした。さらに、1900年頃になると、JDRの寄付の方針を十分に理解した助言者チームが出来上がっていた。

 

2) シカゴ大学

JDRは、単なる物乞いに施しをするようなことはしなかった。彼は、物乞いが生まれる原因を取り除くことに金を使おうとしていた。その方法の1つが教育機関への寄付である。JDRは、アトランタのスペルマン女学校を創設した他、デニソン大学、インディアン大学、バーナード大学、コーネル大学などにも多額の寄付をしていた。そうした教育機関への寄付の中で桁違いに大きなものは、シカゴ大学への寄付である。

1880年代後半から、さまざまなバプテスト派の新大学設立案が提案されたが、結局彼は、財政破綻し休校状態にあったシカゴ大学をバプテスト派の大学として再建することにした。ただし、彼は自分一人だけの寄付ではなく、他からの寄付も条件としたので、シカゴ大学再建のための資金集めは大変であった。また、JDRは小規模なカレッジから発足し、徐々に規模を拡大することを望んだが、学長のレイニー・ハーパーは、最初から総合大学を目指し、JDRは次々と来る多額の寄付の要請に心を痛めた。

彼は大学の中に自分の名前をつけた建物を作ることを一切禁止した。これは、JDR一流の寄付のやり方で、寄付行為を自分の売名行為と解釈されることを恐れたためである。多額の報酬により、当時の第一級の教授陣を集め、新生シカゴ大学が開校されたのは、1892年10月のこと。しかし、JDRはその開校式にすら出席することを拒み、開校式のないスタートとなった。彼が、粘り強い説得を受け入れ、シカゴ大学を初めて訪問するのは、開校5周年の記念式典の時である。JDRは、大歓迎を受け、彼をたたえる歌までできた。

ロックフェラーの教育機関への寄付はその後も続いた。フィラデルフィア郊外にあるブリンマー大学(米国の名門7女子大の1つであり、津田梅子の留学先)を訪問した際には、そこにもJDRおよび、彼の息子のジュニアが寄付をしていたことを知り驚いた。さらに、津田梅子のことを調べていくうちに、津田英学塾(現在の津田塾大学)の校舎が関東大震災で崩壊し、小平に新校舎を建設する時にも、ロックフェラー財団から10万ドルの寄付が寄せられたことも知った(マッチング・ドネーションという形式で、同額の寄付を他から集めることが条件)。

ブリンマー大学

齋藤英雄

 

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